燃え尽きる寸前の巨大な日輪が、西の地平に沈む。

粗末な服を纏った少年が、疲れを知らぬ獣のように森の中の小道を走り続けていた。
頬を伝い落ちる汗。空気を求める肺は鞴(ふいご)のような音を上げ、自らの鼓動の
音が耳の中で轟々と鳴り響いていた。
そして少年の後ろからは、胸に簡素な革鎧を当てただけの数人の兵士らしき男達が駈
ける。
手に手に槍を持ち少年を追うその一団は、まるで兎を狩る狼の群れのようにも見え
た。

――ざっ!

ひどく汚れた――裸足で歩きまわる事に慣れて皮が厚くなった少年の足が大地を蹴
り、小石を跳ね上げた。あと少し。この丘を越え、あの木立の先に見える筈だった。

「――うおっ!」

突然、一人の兵士が悲鳴を上げる。先頭を走っていた少年が急に立ち止まったのだ。
後に続く兵士達は、たたらを踏むようにしてお互いの身体が激突する事を避けた。
「おい、坊主!」
呼吸を荒げた兵士が抗議の意を込めて少年の肩を掴む。
だが棒立ちになった少年の肩越しに広がっていた光景に、その男も言葉を失った。

丘の頂上から見下ろしたのは、夕焼けの残像を映して北の黒海へ流れゆく大河・マラ
シャンティア。
そして、その赤い河のほとりに肩を寄せ合うようにして建てられた数十戸の集落と、
そこから立ち上り、血の色に染まった空に吸い込まれてゆく幾筋もの白煙。
茫然と立ち竦んだ彼らの目の前に繰り広げられていたのは――惨劇。

「―――う…うわああああああぁぁぁ……っ!!」

「ま、まて!」絶叫を上げて駈け出そうとした少年の身体を、慌てて一人の兵士が捕
えた。
「やめろ!犬死する気か!」
「――はな、はなせぇぇっ!」

抗い、暴れる少年の身体を長身の兵士が地面に抑え込む。

「諦めろ!……もう無理だ!今から飛び込んでも誰も助からんぞ!」
「――いやだ!あそこには母さんが、姉さんがまだ……っ!!」

少年は束縛から逃れようと大地に爪を立てて足掻いた。
だが兵士として鍛え上げられた男の重厚な体躯は、華奢な身体の抵抗を軽々と封じ込
める。

「駄目だ!この人数では到底敵わん……王都からの援軍を待て!」
「……くそぉ……!カシュカ族の奴らめ……っ!」

憎々しげに木立を殴る音と共に、男達の悔しげな声が頭上で響く。
その声を耳にした刹那――堪えきれずに溢れ出した涙が、赤土を握り締めた少年の拳
を濡らした。

「はなせぇぇっ!ねえさ……っ!……」





それは、突然の出来事だった。

麦を刈り、羊を育て、魚を獲る――決して豊かとは言えないが、食うに困る事はな
い。
そんな質素で穏やかな生活を繰り返していた辺境の村に襲い掛かった悲劇。

――異民族による襲撃――

強き者が弱き者を略取する――それは古の時代から日常的に繰り返されて来た人々の
営みの一つに過ぎない。
しかし襲われた当事者にとっては、それまでの生活の全てを奪われる惨事である。

その年の麦の収穫も終え、朝晩の空気の冷たさに秋の気配を感じるようになったその
日。
雪に閉ざされる厳しい冬を乗り越えるのに必要な干し肉の原料と防寒用の毛皮を求め
て、少年は父や村の大人達と共に狩りに出た。
しかし村が共同で所有している森は、長年続いた狩りで獲物を獲り尽くしてしまった
らしい。近年では鹿も兎も激減して、目ぼしい収獲を上げる事が出来なくなってい
た。
その為に「危険だから」と狩りに入る事を禁じられていた、村外れの国境に程近い森
へと徒党を組んで分け入ったのだ。

欝蒼と茂る森――長年手付かずだった狩場は、流石に獲物の姿も豊富だった。
狩は順調そのもので、村の男達は一際立派な体格を持った一頭の牡鹿を選び出し、息
を潜めてその四方を囲んだ。そして狩猟と森の神に感謝の祈りを捧げ、一斉に肩に担
いでいた弓矢を牡鹿に向けて構え――気付く。
森の向こう、国境の向こうから聞こえる大勢の男達の気配。金属のぶつかり合う音、
そして鬨の声に。

「――カシュカ族だ!」

誰かが叫んだその声に弾かれたように牡鹿が走り出し、そこにいた全ての動物達が逃
げ去った。

突然の蛮族の襲撃に、森の動物を狩る為の道具などモノの役にも立たなかった。
それでも略奪者の群れの向かう先が、母の、妻の、子供たちの住む村だと悟った彼ら
は勇敢に闘った。腰に下げた鉈を振るい、狩猟用の弓矢を射掛け――

「城砦へ急げ!城国境警備の兵士達にカシュカの襲撃を知らせるんだ!――はや
く!!」

額から血を流す父に命ぜられた少年は、必死に城砦へ走った。
父を救うために。母を、姉を、村を救うために。

だが、国境警備の兵士達を連れて引き返した彼が見た物は、この世の修羅とも言うべ
き光景だったのだ。



                        ■



「……ちっ」

一人の兵士の舌打ちの音が、明け方近くなった夜の中に響く。
丘の上で息を潜めた国境警備兵達が、占領した集落で祝杯を挙げる異民族の様子を
窺っていた。

「奴ら、ちっとも眠らねぇ……興奮しきってやがる。このままじゃ明るくなった途端
に次の獲物に進むぞ。おい、近隣の村に連絡は行ってるんだろうな」

その足許には、襤褸切れのように打ちひしがれた少年が地面に転がっていた。
虚ろに開かれた瞳が、空中にぽっかりと浮かぶ三日月を映して――

「……もう避難させました。隊長、王都からの援軍はいつごろ到着するんですか?」
「そんなこと俺にわかるかよ。運がよけりゃ明日の夜ぐらいには来るんじゃねえか?
それまでにいくつの村が襲われるやら……」

帝国の北、黒海に面した地域に居を構えるカシュカ族は、うつろわぬ民として根強い
抵抗を繰り返してきた。
全体を纏める者がいないシュカ族は、襲撃においても統制が取れておらず、それが
却って神出鬼没な戦法となり討伐せんとする帝国の手を煩わせていた。
その対策として、帝国も国境付近に早い時期から城砦を築き、異民族の侵入に備えて
来た。
しかし、今回の襲撃は城砦近くの集落を避け、帝国西寄りの警備の薄い集落を狙って
来たのだ。
予想外に大規模な襲撃は、城砦に常駐している国境警備隊の手に余った。
ただちに援軍を求める書簡を通信用の鳩に括りつけ、王都に向けて放したのだが――


ぶるるるるるっ

その時――背後から聞えたのは、馬が鼻を鳴らす音。

「……誰だ!」

槍を手にした兵士達が、一斉に弾かれたように後ろを向いた。
だが、彼の目の前に打ち揃った男達の雄姿に息を呑む。
そこにあったのは、彼ら国境警備兵とは比べ物にならないほどに重厚な革鎧を纏った
巨躯の群れ。
頭上に高々と兜を被り、腰の両側に戦斧と長剣を、手には槍を持った男達が、鎖帷子
に護られた馬に跨っていた。
そのむくつけき男達の先頭にあって一際目を引く――ゆったりとした白い衣装を纏
い、長い銀の髪を緩く束ねた年若い武人が唇を開く。

「――遅くなった」

一言を放つ低い声。
それは抑えられた声でありながら周囲を威圧する力を孕み、瞬時にしてこの空間を席
捲する。

「……イ、イズミル殿下……っ!?」

その顔を見知っているのであろう、驚愕した警備隊長が慌てて少年の乗馬の足許に額
突いた。

「ま、誠に申し訳ありませんっ!陛下より北の国境を護るという任務を与えられなが
ら、この様な事態に……っ!」

「よい。」すっと少年の手が上がり、それ以上の懺悔を封じた。

「早晩、カシュカの奴原の大規模な襲撃があろう事は読めていた。北の国境警備の強
化を進言しながらも陛下に聞き届けられずにおったのは、わたしの力不足だ」

静かな琥珀色の双眸が、足下に跪く警備兵達を見渡す。

「陛下の視線は常に南へ――大緑海沿岸の諸国に向かっておられる。今も国軍の大半
を引き連れてアランヤへ進軍中だ。――ゆえに、王都の留守居を命ぜられた私が早急
に動かせるのはこれらしかなかった。許せ」

そう言った少年は後ろの者達を立てた親指で示した。

「もったいない御言葉……恐れ入ります!……が、そちらの方々は……?」

警備隊長の戸惑った視線が、イズミルの背後に聳え立った戦士達を窺う。

「わたしが養成した騎兵だ。このあたりの山岳地は地面が荒れて戦車を使うのに適し
ておらぬからな。馬に直接乗るのは野蛮だと侮る輩もおるが、わたしはそうは思わ
ぬ。これほど有用な武装はそうはあるまい」

そう言ったイズミルは、略奪者が祝宴を繰広げている集落を見下ろした。

「こんな所でぐずぐずとしておる暇(いとま)はない。直ちにカシュカの者共を殲滅
する」

――ばさり。

銀の手甲を嵌めたイズミルの手が、己の長衣の胸元を掴んで無造作に脱ぎ捨てた。
白い優雅な衣装の下から現れたのは、硬く鞣(なめ)した革の上から無数の金属片を
竜の鱗のように縫いつけた甲冑。細身に見えながらも鍛え抜かれた体躯が纏うそれ
は、冴え冴えとした月光を浴び、イズミルの銀の髪と同じ輝きを放っていた。

しゃりん。金属同士の触れ合う音と共に、イズミルの腰に佩いた長剣が抜き払われ
る。
少年の腕が高く掲げたのは、月光にひときわ白く輝く――他国の追随を許さぬ帝国の
強さの証である、鋼鉄の剣だった。
そしてそれが合図であったかのように、背後に控えた男達が次々と剣を抜き払う。

「――カシュカの者共も少々戯れが過ぎたようだ。……我が帝国に逆らう恐ろしさと
言うものを、その身をもって思い知らせてくれよう」

その言葉はこれから起こる惨劇の予言にも似て。
目の高さに上げた長剣で、略奪者達の牙城と化した集落を指した少年の秀麗な唇に、
酷薄な笑みが浮かんだ。
――その時。

「――待って……待ってください!」

ぎょっとした警備隊長が振り向くと、襤褸切れのように転がっていた筈の少年が立ち
上がり、異様な輝きを放つ瞳をイズミルに向けていた。

「お、おい、よせっ!」
「ぼく……僕も連れて行ってください!!姉さんを、母さんを……村の皆を殺した奴
らを許す事は出来ない!僕がこの手でカシュカの奴らをぶっ殺してやる!!」

警備隊長の制止を振り払った少年が、イズミルの乗馬に詰め寄った。

「馬鹿かお前は!そんなこと出来る訳ないだろっ!」

警備隊長が慌てて少年を捩じ伏せようとするのを、馬上のイズミルが手を挙げて留め
る。

「――この者は?」

少年を睥睨したままイズミルが問うた。

「お、お許しくださいイズミル殿下!こいつはあの村の生き残りです。家族が全滅さ
れちまったものですから、気が立っちまって……ほら、馬鹿な事を言ったお詫びをし
ろ!!」

だが、後頭部を押さえ付けて頭を下げさせようとした警備隊長の掌に抗う少年の餓え
た狼の仔の様な瞳が、琥珀色の瞳に挑みかかった。

世継の王子の顔を直接睨み付け、声を掛ける――それは本来ならば不敬罪として斬り
捨てられても当然の行為である。
だが己の世界の全てを奪ったものに対する憤怒と憎悪に燃える少年は、目の前にいる
権力者への恐れを忘れていた。

強い意志の力を秘めた二つの視線が鬩(せめ)ぎ合った数秒の後――

「その面構え――気に入った」

「で、殿下……?」

その呟きに呆然と見上げた警備隊長が目にしたものは、愉しげなイズミルの顔。

「大人の足でも半日は掛かる山道を、カシュカの襲撃を知らせるために二刻で駆け抜
けた少年というのはそちの事であろう?その脚力共々、気に入った」

そう言ったイズミルの瞳は、決して笑ってはいない。

「――私と共に駆ける勇気が、そなたにあるか?」

その問いを受けた少年は、イズミルの瞳を凝視したままこくりと頷いた。

――ふ……

満足げな微笑がイズミルの秀麗な顔を彩る。
そして長剣を握った反対側の手が甲冑の帯に挟まれていたモノを掴み、少年に向かっ
て無造作に放り投げた。
ガシャ!金属同士の触れ合う音。慌てて掌を広げて受け取ったのは、空に浮かぶ三日
月と同じ形をしたずしりと重い短剣。

「使え。その恨み、存分に晴らすが良い。――ただし、その自慢の足でな!」

言い放ったイズミルは視線を前方へ、その向かう敵へと戻した。
「はぁっ!!」
馬の尻に鞭を当て、蹄音も高く丘の下の掠奪者に向かって駆け出してゆく。そして幾
多の屈強な騎兵達がイズミルの後に続いた。


無数の蹄が上げる轟音に我に返った少年は、手の中の短剣を見た。
青銅で出来た鞘の鈍い輝きが少年の瞳を射る。
そして顔を上げて見た先にあるのは、白銀の燐光を纏うイズミルの後ろ姿。
長く伸びた軍団の先頭を征くそれは、まるで伝説の竜神――嵐の神さえも打ち負かし
たイルルヤンカシュの頭部にも見えて――

ぎゅ、と手の中の短剣を握り締めた少年は大きく息を吸った。
そして。

「――お、おい!坊主――ルカ!!」

突然駈け出した少年に驚いた警備隊長が、その名を呼ぶ。
だがその声を振り払って、少年――ルカはイズミルの姿を追って丘を駆け下りた。

向かう先は、昨日までの営みを無残にも断ち切られた我が家。
既に戦闘の始まったそこには、怒号と剣戟の音が激しく渦巻いている。
その混沌とした闇の中で、ただひとつ。
月光を受けて燦然と輝く白銀の光だけが、少年の行く先を指し示していた。





           終わりは来れり。最初より、最後まで。





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